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ぴゅら子のアドリブClass 「アドリブの美学」_第0講

更新日:2022年5月27日

どうも!ぴゅら子です。

【全12回】初心者・中級者向けアドリブClassのブログを開設しました!

漠然とアドリブができるようになりたいとう方へ向けた練習方法や、私の発見を共有したいと思います。


今回の記事は第0回ということでぴゅら子の教え方、考え方ってこんな感じですよ、という自己紹介的な記事となっております。

※教え方や考え方には相性があると思うので参考にされてください。


↓それでは本題に入りましょう!


アドリブソロができるようになりたいかぁぁぁ!!!!!

(沸き立つ読者たちの中の一人にあなたもいるつもりで読んでください)


アドリブソロは誰にでもできるようになるぞぉ

なんていうと胡散臭いと感じるかもしれませんね。

今できないことが、当然のようにできるようになるというニュアンスを含んでいて確かに胡散臭い気がします。


そうアドリブソロはできるようになることではなくて

アドリブソロは誰でも最初からできることなのですから


読者「いやいやぴゅら子さん。嘘はいけませんよ。あっしは、アドリブソロなんてできませぬ。全くできないから、できるようになりたい。そんな一心で、すがるような気持ちでアドリブソロを勉強したいと考えているんですぜ。」


心配することなかれ!そんなあなたも、もうすでにアドリブソロができるんです!

自分が満足するラインや理想が遠くに見えているから『既にできる』という事実を捻じ曲げられて自信を失っているだけです。


私のアドリブの美学

誰でもアドリブソロはできるはずなんです。

今から伴奏を鳴らしますので、好きなタイミングで手拍子を叩いてみてください


課題1 表現とはなにか考えよう!

今あなたは手拍子しましたか?その手拍子を叩いたタイミングは何拍目でしたか?
あるいは、拍子という概念に囚われず何も考えずに叩きましたか?
もしくは手拍子をしませんでしたか?それともできませんでしたか?
音楽があまりにも早くて、何も表現できないまま伴奏が終わってしまいましたか?

どんな手拍子の内容だったとしても、あなたの番ですよと回ってきた伴奏の上で
手拍子を叩く、叩かないのどちらかの行動をおこしたでしょう。
たとえその行動に意思がなかったとしても、オーディエンスは勝手に解釈を膨らませてそれがあなたの表現で、意思表示だと捉えることがあります。

自分にとっては“できていないこと”の副産物的な表現であっても、他人の受け取り方によっては積極的な意思表示に見えるのです。

これは詭弁ではなくてステージに立つ上での本質で、舞台人として避けては通れないギャップです。

ここで実際に私が経験した演奏談を紹介します。

それは小さなジャズバーでした。私は譜面を見ながらウッドベースを弾いていました。弦が譜面台にふれてしまい通常の奏法では出せるはずがないギュビィーンというトレブリーで汚い音が出てしまったのです。しかしその音を聞いてお客さんが「イェーーイ」と歓声をあげました

自分自身にとって汚い音と感じた失敗も、ステージの上で演じられるとお客さんにとって、それは等しく演奏なのです


休符は無音です。音楽を奏でようとするステージの上では無音でさえ音楽と定義されているのです。

逆転の発想をしてみると、アドリブをできないと考えるのは非常にもったいないことです。今のあなたにしかできないアドリブソロはあるでしょう。


少し想像してみてください。

最強の超絶技巧と知識を手に入れたあなたが、32小節のアドリブソロを任されました。

最初の16小節を弾かないという選択肢を取ることはできますか?

おそらくは俺の音を聞け!!とばかりに、最初の小節から1音目を自信満々で奏でるのではないでしょうか。

しかし技術的に乏しいかったり知識がなかったり、自信がなくて今何小節目か分からなくてたまたま弾き出した音が、ソロが回ってきてから16小節目の2拍目裏だったとしましょう。

想像していた音ではない音が出てしまい。短くぷつりと切れてしまいました。

自分の中では大失敗だったかもしれません。


しかしその演奏からお客さんが『初めての挑戦』を表現しているのかもしれないと受け止めたらどうでしょうか。その演奏は本当にダサい演奏なのでしょうか?

あなたを知らないオーディエンスは、まるで初心者の演奏を再現しているような演奏だ。素晴らしい表現だ。そんな解釈を膨らませて感動する人さえもいるかもしれません。

自分にとって失敗だったとしても、それを傍目から見聞きしている人からは素晴らしい表現だと感じることがあるのです。

思い通りの演奏ができなかったという事実そのものは恥ずかしいことかもしれませんが、偶然によって巻き起こる奇跡が表現には存在するのです。


繰り返します。これがステージに立つ上での本質で、舞台人として避けては通れないギャップです。


そうは言われても

実力とずれた評価を受けることは納得いきませんか?

納得できませんよね?だからこの記事を読んでいるんですよね?

その気持ちが芽生えた時に初めてどんなアドリブソロを弾きたいのかという、音楽の芯が通ると思うんです。

自分の演奏をどのように見せたいのか』と『見た人がどのように感じるか

この二つをどのように一致させたらいいのか。その研究がアドリブソロの練習の根幹にあると思います。アドリブというよりも多くの音楽の練習はこの範疇にある気がします。